初めて知った地元中野・弥生町のこと。やっぱり’米’で繋がっている。

日々のこと
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

中にはいっていきなり目の前に現れたのがこれ。


えっ!!!!中野って昔海だったの!
まじびっくり。


100万年前は中野は海の底
30万年前に富士火山帯の噴火が始まり、それが1万年前まで続いたそう
そして、その火山灰が体積してこの中野の地形ができたそう。
(ん?数字の規模が大きすぎて見当さえつかないのだが、これは中野に限らずに日本のほとんどはそういう事で出来た地形という理解でよいのだろか?)



そして、なりよりもまじーーーー!と感動したのが

この弥生町という地域はもともとは純農村地域で
江戸の時代は約40軒100人が住み、みんなが百姓をしていたそう!
そして、この周辺にはいくつもの遺跡があり、
私の通っていた小学校や中学校の跡地からも縄文時代の土器や、
弥生時代の土器まででてきて、古代から人々がこの地で暮らしを始めていた跡があり、
だいぶ古い歴史を持つとのこと。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA



うぉ!なんだかワクワクする!笑
そんな過去があったのか!
やっぱ!!やっぱり百姓関係しとる!この地域も!と興奮ぎみに資料を読みまくってみました。


ちょっと軽くまとめてみる。

中野区の中で私の実家であるこの弥生町と南台という地域

弥生町という名前は、昔の村から町へどんどん移行をしていく中で
弥生土器が発見された経緯から’弥生町’と名が変わったそう。

ちなみに南台は、区の南側の幡ヶ谷の丘に開けた町並みがあることで南台となった。


この地域の江戸時代ごろのもともとの名前は‘雑色村’という名前だったそう。
雑色という言葉が出来たのは、平安の時代に設けられた役所に付属し
様々な雑役をする人々の事を雑色と呼んだ。
中野区における雑色村の由来は、近くの大宮八幡宮を建てる際に様々な事をする事を
雑色と呼んだことから、その人々が住んでいたから雑色村となったとか。
ただ江戸の時代より前から村として開けていたようで、縄文土器等がでていることからもわかる様にだいぶ昔から人々が暮らしており、古来から村として形成されていたとのこと

江戸時代は現在の川島商店街周辺の地域は旗本の領土で、他は幕府の領土だったそう、
そんな当時の雑色村の人口の資料を読み解くと、近代に向かって発展とともに人口の増加があることが多い中、変わらず農村地域として残っていた様子が読み取れるとのこと。


資料によると、
宝暦2年(もう、それいつなの?笑)の村の人口は計180人、家敷は39軒

その他の年を見ても江戸時代も含め人口は常に約100人、家敷40軒

更に時が進み、地元の方が書かれた書物には関東大震災後の事が書かれているようで


大正12年の関東大震災を境に東京とその周辺の生活習慣は大きく変わった。 新宿から3~4km、歩いても40~50分の雑色村 そこは新宿からそんなに近いところなのに、まったくの純農村で36軒の百姓と1軒の雑貨店だけだった’と書かれている

明治時代~大正時代~昭和の初めごろまでも、家の数もさほど変わらず農村地帯であっただろうと読み解けるそう。

農業は豆、ソバ、野菜の畑と後は田んぼだっあそうで、江戸時代に飲み水として整備された神田上水を利用していたとのこと。


ちなみに、この地域は他とは比べ物にならないほど、深水の田んぼで
刈った稲を田舟といって、小さな木製の船にのせて運んでいたという珍しい地域だったそう。


村は多田と川島の2つの集落から形成をされていたそうで、今でもその中地域に残っているし、商店街もこの名がはいっていますね。

ということで、様々な情報をはじめて知ることができました!
まぁ、もともと日本全体が農耕民族としての歴史を辿ってきているから
そんな過去があるのはそれはそうなのかもしれないけど、

そんな中でも関東大震災以降の周りが発展を進めて行く中でも、
昭和のはじめまでは農村地域として、残り続けてきたらしいというのも
なんだか、私はとても嬉しかったし、
新興住宅地のように、作られた町ではなく、自然と家、家が立ち並び
細い曲がりくねった道も多く、歩いているだけでも面白い&なんだか落ち着く理由
米が、この地域にも深く関わっていたことや、まさか自分の通っていた学校の下に土器が眠っていたなんて、全く知らないことだった。

掘り出された土器たち



そんな川島商店街は、昭和39年にできたらしいんだけど、中には大正からのお店もあるそう。


この前、話を聞きにきた時、その方(多分現在70代?くらいなのかな)が子供だったときは、この商店街はもう人でいっぱいで、かばんをぶら下げて歩くこともできないくらいだったそう。家に帰るときは、かばんを胸に抱えて歩かなければならなかったし、自転車なんて通れたもんじゃないくらい、人がいたと言っていた。

私の通っていた学校
OLYMPUS DIGITAL CAMERA


その他、中野に関する資料が展示されていて 竪穴式住居の建て方なんかもあって・・・・・あっ・・・・!作りたい。と本気で思いました笑

OLYMPUS DIGITAL CAMERA


あとは、昔の生活器具ということで、こんな感じで展示されていたんだけど
中には、あれ????これ今でも長南町の中で色んなところで見るな!みたいなものもちらほらあり
昔のものとして展示されているのが不思議だった&
きっとこの東京中野も、長南町みたいな景色だったんだなぁ~と思うと
この中野も更に好きになったし、長南町も更に好きになった。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA



ということで、勝手に私は様々な部分でつながりを感じてしまっているので、

ほら、中野区と長南町の形すらちょっと似ているようにみえてきた笑

そんな素敵ポイントを出しながら、進めていったらもしかしたら
面白いのかもしれないな♪と思いました。
時間ぎりぎりまで見てしまい、ダッシュで東京駅に戻り、帰路へつきました。

東京もよい
田舎もよい
よいところ
足りないところ
あるもの
必要なこと
必要とされていること
走りすぎて見えなくなったもの
ゆっくり歩くとみえるもの
繋がるもの
見えないものに心が動くこと
人だということ
それぞれが、それぞれで補え合えばそれで良いんじゃないか
そんな事って可能なんじゃないかと
思うのです。

庭には樹齢500年というシイノキがたっていました。

木原家日記では、無料メルマガ配信をしております。

日々の変化していくリアルな様子を交えつつ
”生きる=仕事”へと変化させていく方法などを
配信中。

私たち自身も、どんな生き方があるのか模索中!
一緒に探していきましょう!

まずは、繋がる事から。
意味のある事を”考える”より、ちょっと緩んで
ふわっとなんだか気づいたら・・・ってヒントがあるかもです。

気になった方そこのあなた♪
下のフォームから是非読者登録して下さいね♪

 

百姓ちかメルマガ

日々のこと
chikaをフォローする
木原家日記

コメント

タイトルとURLをコピーしました