”自分らしく生きるって”・・・を無理にせず

思い

この言葉達・・・実は自分を苦しめてませんか?

夢をかなえよう!
やりたいことをしよう!
自分らしく生きよう!


確かに・・・確かに
すごく良いと思うのです。

だけど、なんか苦しくなりませんか?

その前向きな言葉苦しくなる時ありませんか?


とはいえ
私も私のやりたい事に邁進し
いや何がやりたいのか分からない時には探す為に模索をし

そんな日々は気づいたらとても愛おしくて大切で抱きしめたくなる日々でした。

だけど人間
そんな”自分”のやりたい事のキャパで物事を考えると一生辿り着かないし
(いや、まぁなんで何かをやりたいっていうのは自分の欲を満たしたいからだけって事でもないだろうし、その欲というのも人の役に立ちたいという欲だとは思うんだけど)

暮らしているならそれでいんじゃないか?

なんか、私はこの町に来て

昔からここに住み、この地で近隣と関わりながらだったり
田んぼと関わってきている方々など
自分の”仕事”をしている方々(家の事、日々の事、地域の事など)をみていると

人間の存在する意味は暮らすことに尽きるのではないかと思うのです。


役割って確かにあると思う
それぞれのやりたい事や、得意なこと
それを活かして生きていきたい
それが自分らしく生きれるみたいに言われがちなこの世の中に感じる現代

でもそれを探そうという概念とか物事の捉え方とか
そういう事に頭を使い、思考を巡らせてはいないように見えるのです。

あるのかもしれないけど、なんか少し違うようにおもうのです。
なんて説明したらいいか分からないけど。

そしてその姿はとても自然です。

きっと相当大変で辛い事もあったと思う。
だけど、太陽の下で土に触れて、まぁなんだか色々あるけど
やらなきゃねという感じで
”暮らし”をしている

それで良いように思うのです。

それ以下でもそれ以上でもなく

それでいいように思うのです。


現代はあまりにも自分探しや自分らしくという言葉が顕著に前に出てきている気がします。

それが出来ていないと、やった方がいいよ!みたいな感じです。

でも元々そんな事は
素から存在するだけであるような気もするし
まずそんな事を何なのか?と自分を考えていたことなのでしょうか?

意味わかります?

そうすると、まずそれについて考えることなんてないから、
ただ”生きる”んですよ。

今日は雨が降っているな。
今日は暑いな。
子供が生まれた、嬉しいな。
親が亡くなった、悲しいな。
花が咲いた。

なんか頭の思考ってそういう事に使うのだけで
本来もう充分だったのではないか

なぁんて思っちゃうわけです。


江戸時代の人の悩みってどんなんだったんだろうか?(笑)


とか、こんな事をつらつら、つらつら書いているだけで

私が頭使いすぎ?笑


でも本当最近、そんな感じで頭の中がシンプルなのです。

いんです。

大丈夫なんですきっと。

手間と余白の関係

色々な”生き方”に関するテーマが増えて、その問題を解決する方法の提示数も増え・・・

たぶん私達は、贅沢病になってしまったと思う。

悩む事ができるなんてまず、とてつもなく贅沢な事であると思う。

色んな手間や効率を突き詰めて進んできた私達は
色んな余白や無駄を徹底的に省いてきた。

いや昔だって余白はなかった。何かしらずっと動いていた。
今よりずっと動いていたと思う。
だけどその余白の部分は”手間”の時間として、余白でもあるが同タイミングで作業でもあった。
料理でいえば、何かを長く煮詰める作業や、田んぼで言えばそれこそ時間をかけて畔をただ塗るなど。
日々の家事でさえ今の様に、効率よく終わるものではなかった。
(とはいえ、どんなに発展しても家事は大変だと思うけど)

その手間の時間は、余白でもあるが動いている。


しかし、現代この手間をなくしたおかげで、ただの余白が生まれてしまった。
すると、余白は埋めたくなってしまう性分なのか
そこには、”頭だけを使い考える”時間が生まれた。
そうでなければ、どうにか”何か”をしてるっぽく満足させる商業的な事に費やした。

ただ、今の生活でまったく”昔”と同じような余白でもあり作業でもある”時間”というものを
自ら持っておくというのは必要な事とみなされると思う。


それが、”好きなことをしよう”という言葉となり伝わっているのかもしれない。

お手本は過去の自分


でもだからといって、悩む事がよくなかったり
必要ないといっているのではなく

もう、それだって別にいいし

何も問題ない。


でもせっかくなら自分の心が”なんだか落ち着く”というものや
”なんか嬉しい気持ちになる”もの
素直に子供をお手本にしたらよいと思う

彼らは得や損を考えたり
この先の結果を予測して、行動を決めない
やってみたいからやってみてるだけだ
失敗がまず何なのかなんて知らないし、考えていないと思う
いつもより少し高い階段から降りる時とか
小幅以上の所を飛んでまたいでみたりする時は
常によいしょ!という勇気をもって進んでいるとは思うが。

元々自分自身だってそうやって何回も
小さな勇気を幾度となく繰り返し
今ここにいるのだから。

今何もしていないと思っても

すみません・・・・・めっちゃやってきてますよ。
数えられないくらい色んな事をやってきてます。
もう何回も夢も叶え、何回も乗り越えてきてますんでと。

まぁ結局、だから”楽しんでなんぼ”という

有難いことに今は
皆がなんだか、そうしろそうしろっていう風潮になりつつあると思います。

だからそこは、いえぇ~い!ありがと!という感じで
流れにのっておいても問題ないと思うわけですが


別にどうでもいいから適当に何もしないで生きようということを推奨しているわけではなく

色んな事を頭でこね繰り返して
あ~かなこ~かなと考える時間を”生きる”とするのではなく

暮らしを、”生きる”に時間をと思うのです。

何も思いつかなければ
めっちゃ丁寧に掃除をする。

それが一番早いのかもしれないなと思うのですね~~
(はい自分にいってますねこれね笑)

長くなりました。

何も考えないで書いているので
結局これが何なのかはわかりません。

まず意味なんてないのですから。

はい!今日もここまでお読みいただいた方に賞をさしあげます!

いつもありがとうございます♪

追加:”自分”の概念は出来ない事を味わう為らしい

自分とは、いわゆる自然そのものから来ているようで。

そのもの自体の一部を分けたものから

”自分”と自分の事を指すようにもなったそうで。

その何でもできてしまうものからなぜ、わざわざ
分けるというチョイスをしたのかというと

”出来ない事”を味わう為だったという解釈があるそう。


その自分にしかできない体験には
そんな事がまずの目的だったとしたら

じゃぁちゃんとそういう体験はいっぱいして楽しんでなんぼですね。


はい。すいません
どんどん意味わからなくなるのでここらへんでやめます。

それでは、またね!

*載せる写真に毎回困る・・・これは前作ってみたデータ。
 なんか好きだから載せておきます。

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