こんにちわ~!
さて、さっそく連載2回目です!
”ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと”という本を
読み進めようという勝手なコーナー。(笑)
途中からの方は、前回の
1.生きるために食べる からどうぞ→ こちら
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2.朝の屁祭り
生きる事は食べる事というのが、前章の話であがったけれど
食べる事は=出す事でもある。
という事で、”糞便”と”屁”に関してがこの章。
そういう話をするのであしからず。
屁祭りとは、一体何なのか?と思ったが
彼らは、朝一番にお互い”屁”をし合いあって
その音や長さ、臭さ等で
何を食べたからそんな臭いんだ。とか
水ばっか飲んだんだろ。とか・・・・
相手の健康の具合を確認しつつも、
その音で”笑いあい”一日が始まるのだそう。
そして
屁に限らず、糞便についても書いてあったのだが
あるプナンの子供を現代のトイレに入ってもらったところ
とても気持ち悪がり、ドアをしめるものと教えても嫌がったとのこと。
彼らは、基本的に外で用足すのが普通。
囲われた閉ざされた空間で、用をたすという感覚が違和感だという。
一応プナンの方々が住む場にも
政府が作ったトイレがあるらしいが
誰もそれには見向きもせず
皆、森に入り糞場と呼ばれるような場の木の傍でするそう。
そして、木の棒でキレイにふき取る。
その際に、他の人のそれを見ては
これまた、これはあいつのだとか
色がなんちゃらだとか
あいつは猪の食べすぎで、こんな臭いんだとか・・・・
”それ”について批評を繰り広げるらしい。
私も、トイレの無い山や畑等々の
外でしたことは、今まで何回もあるのだが
確かにこれは、自分が地球の循環の一部に含まれている!を
一番に身体全身で直接体感できる事だと思っている。
自分の身体を一度通り、栄養となりまた土に戻っていく様は、
頭で考えなくとも、自然の一部に組み込まれている様に感じる。
そして、確かにそれは便の状態がめっちゃ見やすい。
どんな色なのか、どんな硬さか。
それは直結して健康状態を一目で見れる唯一の指標かもしれない。
プナンの方々の興味深いのが、それをお互いで確認しあって
お互いの健康状態を把握するという点。
でもなんかわかる。
たまにすげー良いウンチが出ると、
きゃぁ~~~まじキレイ!気持ちよい!誰かみて!って
思うくらいな時ってありません?(ない?笑)
まぁでも
中々これをプナンの様に
今の日本で同じようにと言われると、正直だいぶ難しい気もするが
実は日本人も似たような事を本来出来ているんじゃないか?とふと思った。
ひとつは、”気”
なんとなく、その人が機嫌がいいのか悪いのか。
顔色がいいのか、悪いのか。
医者でなくても、身体の構造を理解してなくとも
私達は”なんとなく”感じる力をもっている。
もう一つは、
それが私は”雑談”なんじゃないかと思う。
こちらの本に書かれていた事で、それは日本の集落でのある一コマ。
“人は自然の一部である 渋沢寿一著”
https://www.amazon.co.jp/dp/4910533036
何かを役割分担を決めなくてはならなかった時に、村民達は
毎晩毎晩集まって話をしていたそう。
だけど、その議題には数日間触れず
ただ毎晩お酒を交わしながらの雑談が続いた。
外から来た者は、それを見て何でこんな無駄な時間・・・
早く議題について話したらいいのにと思っていたが
数日間そんな事が続いた後、
長老が役割分担をいきなり決めて、事が終わったそう。
えっ?いつの間に?最初からそうすればいいじゃんと思ったが
よく考えると
その雑談の中で、各家庭の家族の状況、健康状況等々の話が
交わされ、自然と情報交換がなされていたという様なお話。
だいぶ屁とは話がずれたが、
他の状況を把握するという事知るという事。
プナンの方々はもっとダイレクトにそれがあるのかもしれないが、
きっと根本的には似た事は、ある気がする。
自分という存在と、他という存在と、いう区分分け?の境目の様なものが
曖昧な事。
外に放たれる物でその身体の状態を認識しあうという。
そして、それは自然と一部にあるという事。
そして、どこか可愛く笑いあうところ。
そんな動物的でもあり、人間的でもある。
そんな事を思った。
次回、
3.反省しないで生きる。
むむ・・・反省しなくて良いのか?
やった!と内心おもった私。(笑)
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