この本。
プナンという狩猟採食民族に長年フィールドワークを重ねてきた文化人類学者さんが書いた本。
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと | 奥野 克巳 |本 | 通販 | Amazon
初めて本屋さんでタイトルを見た時なんだか妙に惹かれ、読みたいと思ったが
なぜかその時、購入まで至らなかった。
その後すっかり存在を忘れていたら、
また別の所でこの本の存在を思い返させてくれた。
あっ!と思ったが、また何か別の事に気を取られ
手に入れるって事にならず
また忘れてた。
が、また最近、
見えない何かから”読めよ。”と言わんばかりに
この本についての事が思いもよらない所や色んな方向から何度となく
流れ込んでくるので、
やっと手に入れ、
まず最初の章を読み終えた。
読んだ瞬間、なんだか少しづつ噛みしめながら一章ごとに、
ゆっくり読み進めたい気持ちにかられているので
ひとつづつ、感想を書きながら読み進めたいと思っている。
もしブログ読者さんの中で、一緒に読み進めたい方がいれば、
ぜひご一緒にどうぞ♪
1.生きるために食べる。
私自身が、20代の最後の年29歳の時にふつふつと、湧き上がってきた疑問。
生きるために食べる・・・のだが、
なんで私達ってその食べる為の食べ物を採るなり育てるなりの直結的な事をしないで、
”食べ物”を得るための”お金”を作るという行為をして、食べ物を得るのだろう?
なんで遠回りしてるんだろう。 みたいな。
食べ物に限らず、生きるという営みに必要な行為を、なぜ直結してやらないんだろか?と
(今は若干こうやって疑問について言葉に表せてきたが、当時は”何が”疑問で、”何が”違和感として自分にあるのかすら理解できていなかったが)
その疑問を、この著者人類学者の奥野さんは
なるほどという解釈でまず、第一章目で書き記してくれていた。
私達は内臓を使い、食べ物を消化し吸収するわけだが、
人類は、内臓だけに留まらず、”外臓”を形成し始めたからだというのだ。
(外臓とは石倉敏明氏の造語)
元々採食狩猟民だった私達の祖先だが、(この本は今でもなお、そういった暮らしをしているプナン族の暮らしからの話をもとにしている)
そこから、農耕や牧畜へと進んでいった。
身体の外に食べ物を”備蓄”しておける状況が生み出された。
それはいわゆるが内臓ではなく、外臓。
取れた物を保存食にして、備蓄するのもが
外臓へとしての発展。
そこから、最終的に人類は、畑や動物として食べ物を備蓄する方法のみならず
貨幣を備蓄し、それを食べ物と交換するようになりはじめた。
更に現代はそれは見えるエリアのことだけではなく、
遠い遠い知らないところで作られたものとも交換ができる。
そんなとてつもなく
巨大な外臓システムを作り出した。という。
今は食べ物のみならず、ありとあらゆるものを
外臓する世界に生きている。
その交換ができる貨幣を得るために仕事をするのだが、
その仕事に生きる価値や、やりがい、生きがい、好きな事という
生きる意味みたいなものを見出したがっている。
という様な内容。
なるほど。
”外臓”なんていう見方をしたことがなかったので、
なるほど。もう、なるほどとしか出てこなかった。
たしかに私達は、とてつもなく巨大な外臓を作り出して暮らしている。
ありとあらゆるものに対して。
著者も書いてあったが、
これは今の現代の暮らしが悪くて狩猟採食民族的暮らしが良いという事ではなく、
そこから何か見出せる事。今後の暮らしについて考えさせてくれる事があるのではないか?という事。
それを
少し考えてみたり、一歩身を引いて全体的にどういう事なのか?を考えてみる事という事をしたい。
という事で、2個目の章 ”朝の屁祭り”を
今夜読んでみたいと思う。
コメント