里山コモンズとは?営農組合という現場から考えた、地域から学ぶ事の考察

思い

*思うがまま、文章の流れも何も考えず書き綴ったので、話の流れが飛び飛びかもしれませんが
ご了承ください。


同じ言葉を、最近各所で何度も聞く。
”仕事”と”稼ぐ”は、本来違うのだ。という言葉
仕事と稼ぐこと
これは本来違うものであった。

長老達の間でかわされる
仕事に行ってくるという言葉のさす
仕事とは、例えば山に行きキノコを採ること。
そのキノコをまた来年も取れる様に、山を整備すること。であった。

そういう様な事だった。


稼ぐとは、言葉のまま
日銭を稼ぐということで、お金をもらってくるということ。


昔は、土壁の土はこのエリアから。
この地域はここのを使う。
薪はこの地域の人は、あの山から
などなど・・・・一体それはだれのもの?という問いすらなく
ごく自然にに皆の共有のもの、共同に使うものとしてあった

コモンズといえども、それをただ共に所有する事という端的なものと捉える事と
実際に自らが関わり作業をするということ

そこには違いがあり、形式的な共同の活動となる農で言えば
いわゆるJAの様な形になるのではないかという様な話もでた。
がこれだと本来、古来の人々が長年関わってきた共同の土地、共同の作業とは異なる。


今回私達はさと結いという活動が、このコモンズという捉え方とマッチしているのではないか?という事でひとつの事例になればと、メンバーの一人が登壇
そして、ブース出展をしてきたのだが

私は今回の、登壇者さん達のお話をきいて、やはりこの地域の方々の顔が一番に
思い浮かんだ。

今でも地域に残る地域活動、例えば部落の草刈りや神社の清掃などなど・・・
それらも今も残る結いの形ではあるとおもうが

この仕事と稼ぐ
その価値観の間や、しくみの中のはざまで最前線でいるなと思う皆様の話を少ししたいなと。
私の旦那の日々の視点や活動から、私が勝手に考えていることなので
本来はどうかわからないが、話しておきたい。

現在私の旦那は、草刈り機を持っているまだ少し若い奴という肩書きのおかげで(笑)
地域(家の目の前)にある営農組合という所からお声がけがあり、去年の10月頃から
共に働いている。

月曜日~金曜日、雨の日以外は冬の間は朝8:00~17:00まで、
夏の間は水曜日を抜いた週4朝8:00~16:00まで、
地域の方々と共に汗水流しながら作業をしている。
給料はでる。1律皆、1時間1000円である。(大型機械のオペレーター業務や、組合長になると給料は変わると思う)


殆どが、この同じ集落もしくは周辺集落の方々(ここだと西地区と呼ばれる地域に住む方々)で結成されている。
皆この地で生まれたか、もしくは婿で入ってきた男性陣である。
唯一外から来ている私の旦那が最年少で48歳。
それ以外は、60~80代。70代の方々が現役バリバリで体力仕事をこなす。
60代が体力パワー系、70代が体力&機械&指令塔担当、80代が機械&指令塔&事務方
といった感じとのこと。



ずっと上の年代の方々の中には百姓をしてきたという方々が多くいるが
一度、勤めに出て定年退職を迎え、その後営農組合にて勤め始めたという方が大半を占めているようにも感じる。

この営農組合の仕事としては、年齢の関係、跡継ぎの問題などでもう田んぼをやらないと決めたお家が、こちらの営農組合に田んぼを頼み、代わりに彼らが稲作を一手に引き受け行っている。
面積は詳しくはわからないが、話を聞く限り本当に地域一体、相当な広さを担っている。
長南町は、おおまかに西地区・東地区・長南地区と分かれているが、旦那がいる営農は西営農組合なので西地区のほとんどを担っているのではないかと思われる。

営農組合の詳しい仕組みは私はまだよく分からないが、おそらく国との連携がなされ、
作られたお米や豆は全て買い取るからと保障がされた上で、お給料も国からでているものなのではないかと思われる。

言えば田んぼの代行組合みたいなことだろう。
昔機械化が進むにあたり、国からのお達しや地域の人達の収量をあげていこう!という思いの中、地域の人達の同意を得て
今までそれぞれが所有する形もまばらな小さな小さな田であったものを、
区画整理?の様な事が行われて大きな田んぼへと変貌をとげたらしい。
(なんか、それを表す言葉があるっぽいけどなんていうんだろう?)

その時に了承し、田んぼが大きくなったり、形変えた田の持ち主達から、やれなくなったから代行してやってくれと言われた場合は、この営農組合さんは断ることはしてはいけなくい、全て引き受けなくてはいけないらしい。

話を聞く限り、メンバーが勢ぞろいして約20名程、しかし体調などもあり来なくなった人などがその中の約10名。
なので基本メンバーは数10名。
シーズンごとの仕事内容によるが、その中でも事務方に回っているのが数名、そして機械をオペレートするのに更に2~4名程。
現場で溝堀りなや竹刈りどのパワー系が4~6名程。

この人数で、あの膨大な面積の田を一手に担っているのだ。
いくら機械化が進んでいる、農薬等を含めた作業の効率化が進んでいるとはいえ
これを毎日やるのは、楽な仕事ではない。

それは、日々作業に参加している一応最年少ではある旦那をみていてもわかる。
汗にまみれ、泥だらけで帰ってくる。
その様は本当闘いから帰ってきたような姿にすら見えるときがある。

しかし、彼はいつも清々しい様で帰ってくるのだ。
今日一日、皆と何があったのか、どんな一コマがあったのか
どんな会話がなされたのかを、教えてくれるのだが
それが、なんとも愛おしい話ばかりなのだ。


しかし、実際給料ももらいながらの作業ではある。
今のこの社会の概念でいえば1時間1000円ということを割にあう、あわないという端的な部分でみればあわないのかもしれない。現に1か月で旦那が頂いてくるお金は9~10万円。
私達は、それがとても愛らしく、素敵なお金に感じるのだが
皆もそれはわかっているのだ。若い人はこれではやってこない理由も。
家族は養えない。定年後にやりにくるものという立ち位置感がある

ただ
このシンポジウムでの話をきいて
この本来の働くの裏に隠されている”何か”と
給料としての”対価”
その比例しない何かの狭間を、感じ取りながら
どうにかギリ成り立っているものが、あるようなきがしたのだ。

この本来の仕事に経済主義という概念が入り込み
その概念や方法、仕組みなどが、ほんのり織り交ぜたりしながらも
何か本来持っている人間力というのを忘れることなく、本来の”仕事”の楽しさや
共にこなしていく、達成していく喜び支えあい、自分達の地域だからという思い、役にたてるのであればと動くこと。

そのはざまを行ったりきたりしている、なんとも絶妙な空間という場だと思う。
いまなお残る
それでも、日々こなしていくと
その土地を持っている人がやったらいい。
そのギリギリのラインの様なきがするのだ。


今さだまさしの唄を聞きながらこれをかいているのだが
さだまさしの唄の世界観のような世界がそこにはまだ残っているとおもう

ハリウッド映画の様な”感動”物語ではないけれど、日々の中にある
ちょっとしたいじらしく素朴な嬉しさや喜びがそこに流れる時があるのではないか

そんな空気感を表現してくれている唄に聞こえてきた。


てっちゃんから聞くそんな毎日のちょっとした小話は、そんな事を思わせてくれる。


こんな話のどれも、べつに何にものらないかもしれない。
何のドラマや映画の話には採用されない。ドキュメンタリーテレビにも映し出されない。
だけど私にはこういった光景こそ、映し出されるべきものの様な気がする。
いや、ご本人達はそんな事すら思っていないと思うけど。

きっとその空気感は、言葉で書き記せるものでもなく歯がゆいのだがその場にいる者のなかにしかわからない感覚であるとも思うが
おそらくそんな話を本人達に言ってもそれのどこがステキなのかわかってもらえないかもしれない。だってあまりにもそれは普通で当たり前の事だから。
それでも、毎日そんな方々に触れながら帰ってきて、話すその小さな小さなお話は
私にはとてもステキなものに聞こえるのだ。

皆も本当に体力的にはしんどいと思う。
やらなくてよいのであれば、やらなくても大丈夫な事なのかもしれない。
皆が何を理由として、そこへ出向いているのかは
それぞれの方々で違うと思うから
それは憶測でしかないのだが。


それでも、日々ここに集っている方々がいる。
何がその原動力?になるのか聞いた。
すると旦那のてつの分析では
恩返しだと思うとの事。

この地域に住ませて頂いているという意識もせずにも根付いているその感覚からの行動なんではないかと。

だが、おそらく
たぶんこの方々は、恩返しの為ですなんてかっこつけた言葉で自分の今の行動の説明をしないであろう。
あまりにもそれは当たり前のこととしてあり、頭で考え言葉で表すものでもないからだ。

作った米をお酒にも加工している。
長年働いている80代の大先輩。
昨日いきなり、杉玉?をもってきたらしい。
あのお酒を仕込む酒蔵にて新酒ができるとかざるやつだ。
たしかに数日前にキレイな杉の葉っぱを大量に軽トラに載せていたらしい。
それが飾られるのをみて、あっあの時、これを作る準備だったんだと知った。
それ自分で作ったんすか>?と聞くと
えっそだけど。そんなん当たり前じゃないか、何聞いてるんだ?くらいな回答だったらしい。


まだ残っているのだ。
本来の”仕事”の習慣が。
きっとあまりにも当たり前すぎて、その凄さを表す言葉がないのだが

まだやはりこの方々一人一人の中に”仕事”がしっかりあり、繋いでいるものが。

旦那はいう。
年をとり、身体がいう事を利かなくなる。
だから身体仕事は若いもんへと、”これやれ””あれやれ”となり、
身体仕事を一手に引き受ける。

その代わり、まだ智慧の浅い若い者には、長老が智慧や大切な事をおしてくれるのだと

だからそこで、結局有難いのだと。

おじさん皆の一つ一つの行動。当たり前の事を当たり前にする姿がそこにはあるらしい。
終わったら物をしまう。
道具の扱い方。物事に対しての楽観さ。人に対しての優しさ。
当たり前の事を当たり前のようにやる。
その全てが、見ていて理にかなっており、彼的にとてもしっくりくるのだそう。


仕事は恩返しなのだという。
この地域に暮らさせて貰っているしといいう
自分の暮らしと人の暮らしに役にたてることだからなのだと

あの3.11の時
一般企業のいわゆるサラリーマンと呼ばれる方々の多くが、現地支援に赴いた。
それは本能的に残っている人間の行動の感覚が呼び起こされた一種の瞬間ではないかというのだ。
お金もでない、だけど必要とされるのであれば、喜んでもらえたという感覚。
それが本来すべての行動の源泉なのではないかと。

コモンズで語られるその話はきっと
”なぜ今自分がそこにいられるのか。”を本能的にわかっているからこそ
成り立ってきているものなのかもしれない。

その繋がりを体感として、日々そばに無意識にみているこの地域に住む方々は
その本能の感覚が色濃くまだあるのであろう。

それでも、やはり経済活動というコモンズを切り裂こうとする力が
すくなからずその合間や隙間をぬって及ばないわけでもない。
やはり、この作業の合間でも
どうしても出てきてしまうのだ。

営農に頼んでるんだから、やってもらって当然だという思って遂これはこうしてくれよなと告げるだけ告げて行ってしまう方。
それを聞き、いやあんたの田なんだから、自分でやれよな!と思ってしまう受ける側。
指示する側、取りまとめる側も存在しないと成り立たないこの規模
それでも時たま思ってしまう、いや・・・いうのは簡単だわ・・・指示するだけわ簡単だわ。早く仕事終わらせたら、すぐに別の事かい、こっちはロボットじゃないんすわ。
なるべく進めないと、終わらないから進めねばと考える側。


それでも、それでもね
そんな事が合間にあってもね、皆でアイス食べたりしながら
やってるんですよ。

皆クタクタですよ。身体は
私の旦那も休みの土日は、もう身体が動きませんわ笑

だけどね、だけど

やっぱり毎回なんだか清々しく(時にはとことんぐったりだけど)
帰ってくるんですわ。
今日は、この人がこんな事をしてくれた。
今日はこんな面白いことがあった。
思わず思い返すと笑ってしまうような愛おしい話をいくつも持ち帰って
帰ってくるんですよ。

それはね、きっとね
やっぱりそこにいる人々の中に
単に営農組合に行きお金を貰っているという事以外の
共通の”何か”がある気がするのです。

そしてお米という存在も何か違うものがあるとおもうのです。

やっぱり気持ちいのですよ。
田の周りがキレイになり、日々溝さらいをして、竹を刈りと手入れ、してきた場に
種が蒔かれ、水が貼られ、
なんだか。。。とても気持ちの良い事なのですよ。

その色んなものの狭間をいったりきたり、
だけど本能的にわすれていない”何か”が残っている
その経済という面や、それ以外の事での事の狭間にいる場なのではないかと。


こんな長く書いているけど
多分ご本人様達はどういう受け止め方で日々の作業をこなしているのかは
何回もいうがそれぞれ違うだろうし、全然見当違いかもしれない。

だけどやっぱりすっっっっごく根っこにはこの地に住んでいるからという様な見えない思いがあり
それを”恩返し”しているのではないかと思えてならない。


ただ、やはりこの価値はあまりにも形のないものだからゆえ
いわゆる今の若い者には伝わらないし、良さのプレゼンはしにくい。
働く”条件”だけを提示してしまえば、なかなかやります!という人は極端に少ないだろう。
だからそこもひとつ確かに現実的にもある課題ではあるのだと思う。


何を結局まとめたかったのか私も分からないんだけど

とにかく
そこに残る”何か”の事を私は尊敬しているのだ。

だから私なりの考察を残して、私なりの恩返しとしたい。
この営農に限らずとにもかくにも、この地域には自分事以外のことをたっくさんやっている人で溢れている。
それは今では”しがらみ”の様な言葉になる事もあるかもしれないが
それでも、いややはり、地域を自分の庭先と同じような感覚でキレイにしているのでないかと。その日本人的感覚が色濃いのではないかと。


今後どのように変化をしていくのか、

わからないけど。

このままでいいのかわからない。
旦那自身も
しんどい、しんどいと言いながらも続けていく事が正義なのかもわからない。

でも今はすごくやっていたい!!!!!と思うそうなのだ。
今だ、確かな現金収入というのがない私達の生活を地域にどうにか還元しつつも
僅かながらでも支えていくよという行動なのかもしれないが。


でも
とにかく、そんな日々の話は
とてもいじらしく、愛おしく、お茶目で、なんだかとても可愛い毎日で溢れている。

もし私に漫画を書く才能があれば、そんな日々を漫画に書きたいなと思うほど
皆のキャラはステキである。

それを世界に知ってほしくもあり、その反面
世界のどこを探してもない、この空気感は
ステキすぎてこっそりこの地に住む方々の特権であり続けても良いような気すらしてしまう。

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