何か成し遂げる、夢を叶える、世の為にたつ・・・そうじゃないと駄目なのか?

思い
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先月のネットがない時に、書き留めておいたwordの長い文章・・・・
まとまらなさ過ぎて、載せようかどうか迷ったけど
そういえばそんな事思ったなと。
載せてみます。




色んな思いや考え、様々なことを見聞きし感じたことが

まとまりがなく形にできないので
とりあえず書いてみることにする。

田んぼ作業していたら、通りかかった方と熱い話になり笑
色んなことを思い浮かべた。

この世の中
今の現代
あまりにも何かを成し遂げようとか、夢を叶えよう!
成功しよう!人の役にたとうとか
なんだろな・・・・・そういうポジティブな言葉があまりにも多いのかもしれない。

地域を活性化させよう!もそうだし
環境をよくしよう!とか
自分らしく生きよう!とかなんだろな・・・・・
人の為!世のため!にとか
本来の自分とか
何?なんかそういうこと。

それがすべてではないんではないかと言うことを気づかせてもらった今日。

すべてではないというか、そういう風な言葉が多すぎるから
その逆の苦しみみたいのも生まれてるんじゃないかみたいな



それは
自ら考え行動を起こし、自分の意思を外に表し、表現し
伝え広め、活動ができる
常に自分の思い描く方へと進みつつ願いを実現しているような

いわゆる‘成功’みたいな


そんな感じはとても理想的であり、
そうやって夢を叶えていくことって素敵なことだと確かに思う

その一方
そういう風に前へ前へ、物事を自らスタートさせたりするわけではなく
自らの思う‘夢’とか理想とは違うところに身をおきつつも
現実と夢が一致することはなく、実際は違う生活をしていることもあると思う

それは、そこから踏み出す勇気がなかったり
どうしても動き出せない理由があるのかもしれないし

もともと求めてもいないかもしれない

でも今の世の中どちらが、TVやネットなどでフューチャーされる、賛嘆されるかと言えば
確立的には前者であろう。
でも果たして
夢を叶えること、 思いを形にすること

そんなことが人生の目的なのだろうか?
そうしないとだめなのだろうか?

そうなれた人だけが何かを成し遂げれた人であり
そうでない人は、成し遂げられなかった人なのか


どんな風にしたいのか明確でないと苦しくなってしまう原因を
そんな風潮があるから生み出されてしまったのではないか。
何かをしていないと、何もしていない人なのだろうか

なんだか今の自分はできていない。
一般的な‘できて’当たり前
もしくは、できている人が良い人で
できない人は、意欲がない人はよくない

まず何の基準で意欲がある人、ない人と把握するのだろうか

だれ基準なのだろうか


勉強ができない
スポーツができない
コミニケーションが苦手
片付けが苦手
仕事ができない
字がかけない
計算ができない
計画をたてられない
人の話をきけない
空気をよめない
上手く話せない
ゆっくりしか行動できない
ゆっくり考えないで、動くことしかできない


なんでもすべて長所でとらえろというが
みんな基本的には、できないことだらけではないのだろうか

もちろん良い点も一人ひとりたくさんもっている

だけど出来ない、劣っている部分も沢山もっている

というか人間みんな基本的にヘタレだと思う
そこをまず自分自身が自覚すると
周りに対しても大きくかかわりもかわるのではないか

自己肯定間が高いほうがよいみたいな風潮だけれでも

その言葉の意味って
何なんだろう。

むしろそんな言葉むか~~~~~しにあったのだろうか

自分はある意味できないけれども、生かせてもらっている

それくらい謙虚だったら他も許容できることになるんじゃないか

自分が思い描くできるがあっても
それができない、同じ感覚にできない人は
いわゆる‘できない’人なのだろうか

夢を叶える
そういうことが良しとされているけど

果たしてそれが‘良い’ことなのだろうか?


べつにそれが人生の生きる目的ではないだろう




上手くできない
日々ただ追われて生きてるだけのようだ。
それでも生きている。


もうそれだけで十分花マル!なんじゃないだろうか。

その人がその人として生きている
それだけでもう良いと


自分自身はヘタレだ
何もできてない・・・・それでも私は生きている。

それくらい謙虚で、何もできない自分という風に逆に自分を捕らえてしまうくらいのほうが
もしかしたら他にも大きな気持ちで迎え入れることができ

本当の多様性の社会(一般的に素敵な社会とされる)になるんではないか



あまりにも
世の中はきれいな言葉で飾りすぎだと思う


実際はみんなそんなきれいな気持ちで100%できているわけでは本来ないと思う

頑張れないし、人も嫌いになるし
愚痴もでるだろし、

でもそういうところはなるべく自分は出さずに、
他のそういう面を見ると
‘そういう考えや行動はよくないと思う。もっとこういう風に思ったらいんじゃないか?’なんていう場合もあるようだが

良い考えかたとは、そもそも何なのか?

自分だって、やりたくない
やれない、めんどくさい、嫌い、
妬み、恨み、苦しみ、嫌われたくない
なんだかそんなあんまり宜しくないとされる感情を持ったりするじゃないか

なのに、なぜ自分のヘタレ部分と他のヘタレ部分が違うだけで
他の部分は指摘するのだろうか?


なんだかとてもキラキラしている場所で生きている

そんな実際はそんなきれいに生きていないと思うぞ

ありのままの‘出来ない自分’
ていうのを出しまくっている人がいると
そこがいきなり許せない。


昔の日本というのは
そんな部分もひっくるめて
受け入れていたそうだ。

親戚の中に一人やふたりは必ずヘタレがおり、
地域の中にもいたんだよと教えてくれた


だけど昔は、それはそういうもの
だからといってどうこうではなく、そんな部分も含めて
許容しまくって
それだからこそ逆にまとまっていた


成り立っていた。

それが本来のコミニテぃーであり
わざわざそこに気をかけて優しくしようとか
そういうこともなくただただその現実を受け入れていた。


そういう受け入れる力が大きく長けているのが本来の日本の村であり

その例は新しいコミニティとして作られるのではなく昔からの集落にこそ形が

あり、むしろ私たちが見習うべき場所であり
変えよう!と新しい何かを持ち込むことだけがすべてではないことを
しっかり認識した上で
教えて頂く、真似させていただくという謙虚な気持ちを忘れてはいけないのであろう。



私たちが恵まれていたポイントは

基本的に私たちは
本当に自分達が何も出来ない、何も自分達で成し遂げる力がない
落ちこぼれだと思っていること

まじで何もできなくて
そんな自分に

マジで嫌気がさす。


思い描くことにまっしぐらに自分の力ではどうもがいてもなんだか出来ない

それが、何も成し遂げていない
と思った。


でもそれでいいのかと

それくらい出来ない自分を受け入れる。

そしたら、別の部分で出来ない人がいれば

私の出来る部分を少し使わせていただく

そうしたことで、何も出来なかった私が0.1%でも何かを出来た人として
自分を満たしてあげることがその人のおかげでさせてもらえる

それはとてもありがたいことであり


またその反対もしかり



そうやって人間と人間が、どうにか意味あるものとしてお互いがあるから
認識できて
意義ある人生だったなぁ~といえるんではないか。


自分が何かをしたから意義ある人生ではない。

他がそのように思わせてくれるようにいてくれたから
あたかも何かをやったかのように思わせてもらえただけであり

そこに気づかずに、自分が歩いたからだ!自分が行動を起こしたからだ!自分が勇気を出したからだ!
そんな風にすべてをおもったり
そういう風に思わせようとしてくる


テレビでもそうやって自ら道を切り開いてきた人を
あたかもそういうストーリーで感動的に進ませる


でも、一般的に成し遂げた人として出てこない
やりたいけど、やれていない
苦しいけど抜けれていない
それでも生きている
そういう地道なことを影でしている方こそが成し遂げている人であるんでないか


そんなことをふとクルクルクルクル考えたような
考えないような。



これがいいたかったことからはずれた様な

まとめられない私。

何が結局言いたかったんだろう。

これではなかった気もする。

もっと不器用に生きよう
もっとへたくそに生きよう

本来人間なんて
そんなもの。
それくらいにしか生きれないもの。


それで
いいような気がしてきた。

良い人生に!なんて言葉があるから
そうじゃないと苦しいと感じちゃうんじゃないか

そうじゃなくたって
できなくたって
十分それでオッケーなのだ

そこにいてくれるだけで十分意味をなし
世の為、人のためになっている

本気でそう思う。





そもそも
私たちは何かを成し遂げなければならないのだろうか?

夢をかなえなければならないのだろうか?

自分らしくを探してキラキラといきなければならないのだろうか?


例えば自分自身には、進んでいく力や

夢を形にしていくバイタリティー
何でも挑戦する気持ちや
そこに向けて率先して動く力があるとする。

きっとそんな場合、現在そうでない人にアバイスをしたり
こういう新しい考え方があるんですよ
そんなことを話すかもしれない

一見それは、それを伝えている側が何か手助けをしているかの様な構図に見えるが
それって本来
そういう事を聞いてくれる人がいるからこそなりたつもので
別にその教える側が何かすごいわけではなくて

そうやって聴いてくれる人、もしくは自分と違う人がいるからこそ

その人に何か伝えれている瞬間、自分が行動を起こして何かが変わったと思う瞬間
それがあたかも自分が何かをしたことで
何か自分は人の役にたっていると思わせてくれているわけで
逆に自分が手助けされているのだ、

意味わかる?


自分が何かをしてあげたことで、何かが変わっているというのは
大間違いで

そうやって思わせてくれる人、環境があるからなわけで

どちらかといえば、逆の立場の人のほうが人の役にたっているわけですよ。


問題があるからこそ、そこに対して何か行動を起こしている自分自身に満たされてっ気持ちよくなっちゃっているだけで
実際はその問題を持ってきてくれた人や現状が自分を助けてくれているという構図でもあるのだ。

昔はそんな言葉も要らずとも、出来る人できないひと
そんなのも混ぜこぜで、別にそれでどちらが優位とかないで出来てきたのではないだろうか


現代はその構図があまりにも、逆に重きがありすぎて
何も出来ていないことは、自分らしさを探せておらず辛いみたいに
思わせてしまう傾向を作ってしまっている気がする


もっとわかりやすくいえば

んーーーーー例えば、なんだろう
よくOO支援とかOO保全活動とか
体の不自由な人のためのOO
何か問題を抱えている人のためのOO
人権保護団体とか
なんだろ・・・とにかく何かを助けていますという


一見困っている問題や人に対しての支援をしている人や団体って
なにか物事をうごかして社会に貢献しているようになっているけど
(まぁ実際そうなんだけど)

特に人
何か行動を起こして、社会を変えていると感じている場合とか

でも問題があるからこそ、そこに対して何かをするときに
その行動を起こしている自分が自己満的に心が満たされて
なんだか人生を生きているように感じがちだけど

実際はそうやって手を差し出された側のほうが
すでにそうやって‘助けられてよかった’って思うそういう人間の欲を
満たしてあげたという役にたっているわけで


そういう風な人や、現場があるからこそ
あたかも自分が何か達成したかのように思えているだけのこと

だから、自分が何かを果たしている事なんてひとつもなく
そういう風に満たしてくれた事にまず逆に感謝しなければなんじゃないかと

そうしたら
人に対しての感覚って大きくかわるとおもうし


まずそもそも最初に戻るけど
何かを達成したり、成し遂げたり
そういうことがよいことなのだろうか



そうじゃないで、変わらぬ日々をすごしても
自分らしさやそういうことは差し置いて
暮らしている自分という人のほうが偉大なんではないだろうか

むしろそんな方々は‘自分らしさ’とかなんてそんな小さな言葉で
人生をみていないとおもうのだ

全員にそれを求めること自体がおかしなことなのだ


それは人に限らずすべてにおいてそうだと思ったのだ


もしくは地域活性化にしてもそうだ
田舎と移住者
例えば外からやってきて今までなかった方法を始めるとする
今までそんなやり方をしてきていな側にそれを伝えようとする

そうか、やってみたらいいさと言ってもらえる

もうその時点で新しいものにたいしてもう何割もこちら側に寄り添い
受け入れてくれてるにもかかわらず

もっと変われもっと変わったほうがよいと
更にこちらに歩み寄れと促そうとする


まぁ実際はそんな強いことはないだろうけど
それでも中にはそう受け取ってしまう人もいるだろう

でもすでにだいぶ歩み寄ってくれたスタートなのだから
最初の一歩、2歩もう10歩先まで
もともとあるものに歩み寄ることのほうがが大事だろう

いや歩みよるなんておこがましい


もともとこうやって、何十年というスパンで
本にも新聞にも載りはせず、新しい試みと称されない

コミニティー、地域というものを
さまざまな人がいたり、問題が浮上したりしてきたであろうに
集落という形を実際継続し、破綻させることなく
受け継いできたという名もなき輝かしい実績があるのだから

まずは新しく入ってきた新参者はそこを真似させていただく

勉強させていただくという気持ちをもつことがだいじなのではないだろうか


べつに誰がどうということでいっているのではなく

何かを進める、はじめる、変える
そういうキーワードが良しとされがちなこの世の中の流れの中で
そういった真逆の‘変わらない’でいた部分こそが大事であり、
まずこちら側が受け入れるという体制をとっていないにもかかわらず

自分の思い描くものだけを受け入れてくれというのは

そんな進み方をしてきてしまったから

現代のひずみがでえていることを知らなくてはいけない




まず、自分のように何かを考えたり出来たりしない人もいる
この世の中の一般的な常識と言われるものからいうと
出来損ないみたいな言葉だったり、
わかりやすく言えば‘へたれ’のような人だったりするかもしれない

でも昔はそれだから何?の世界だったのだ。
それですら大きく許容してきて
むしろそこに対して何かやってあげたというような傲慢な気持ちも持ち込まず
地域として進んできている
そんな部分をまず改めて現代は見習わなければならないと思う。


うまく動けない
気がきかない
うまく話せない
じぶんの考えがない

それってだめか?

だめじゃないと思うのだ


もう伝えたいけど上手く書き表せないのがもどかしい。




上手くかけない
自分でもかけない


とにかく私が言いたいのは

そうやって何かをすることがそもそも必要なのか?という笑
極論かもだけど

別に何も考えず、ただ生きている

あの人は何の役にもたたない

そうやって周りが見ることはとてもおろかだ。

そういう役をかってくれているからこそ、あなたがあたかも何かを出来ているように思わせてくれているんじゃないか。

それはあまりにも、大きな役割であり感謝をしなければならない。



そうやって何かをしている人ばかりにフューチャーするから

自分の人生で何かを成し遂げていない気がする
そんな思いに溢れて
苦しむ人がでてるような気がする。


本来真逆であることを知っとくべきだ。


本当の人は
‘自分’が何かをしたい、夢をかなえたいとかすら思わないのかもと思った。

それは究極の本当の人間だろう



とにかく
何かを成し遂げること
自分らしくいること

そりゃ
それができたらいいだろう
自分がなんだかとても満たされるから

だけどそういう風に思わせて頂いているだけで
それは自分の力ではなく

常に周りに
自分は助けられているだけなのだと自覚しなきゃならない



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