卵から考えるあーだこーだ考える私の脳

思い

家かえったらテーブルにキジの卵がおいてあった。

旦那が皆で草刈り中に出てきたようで親鳥はいなくなっちゃったらしい。

キジは一度離れたら戻らないから持ってって食べれと地元のおじさんに渡されたらしい。

以前も家の庭で

草刈り途中にキジが卵を抱えてるのを発見

その時は、隣のおじいちゃんが横で卵抱えてる時は近寄るな。と見守った。

だけど後で不意に寄ってしまった時、親鳥が飛び立ってしまった。

ごめんと思いつつもしかしたら戻るかもと待ってみた。

知らぬうちに、すぐにカラスが見つけて全部持っていった。

話は変わり、

以前町について語る時過疎化の話空き家問題どうしてもそんな話が飛び交いがちになるそんな中、

どんな事よりも1番にある方の口から出てきた地元の長老の言葉を、

すごく覚えているんだけどまず、

一言’里山にお世話になっているもんで’

その言葉と目の前の卵

無理には奪わないだけど、

受け取らせてもらうタイミングなら

有り難く”普通に”、受け取る

そうでなければ、やっぱり無駄になることなくどこかに巡っていく

頭で考えなくても感覚的にお世話になってるなと感じるのだ

里山の為に

環境の為にって概念じゃないのだ

目の前で

常にリアルにお世話になってるなと無意識に感じるから

だから奪うことだけなんかできないのだ

やろうと思ってもできないのだ

まず、そんな力人間には本来備わっていないのだ

だって無くなれば自分が生きれなくなるから

多分こんな、かっこつけた言葉でみんなのは自分の行動を説明しないと思う

それはきっと本物だから

すでにそうであるから

本当の所がどうなのかは正直わからない。全然勝手な私の解釈で検討違いかもしれない。

だけど私には色んな場面で根本のど真ん中にはそんなことがあるとそう感じざるおえないときがよくある。

こういう事を言葉で説明する自分もなんかカッコ悪いな、とおもうのだが

思ったから

思ったのだ。

生きるってなかなかサバイバルだよ。

こうやって産まれる前に食べられちゃう事すらあるんだから。

それを口に入れる時感じる時ありがとう以外の気持ちが出てこないはずがないのだ

無理に思うのではない

説得されるわけでもない

言葉で理解することでもない

すごく無意識にそれってある気がする

ただ感じる事しか本物じゃない気がするそうやって

日々自分達は色んな”命がけ”を分けてもらってる

でも過敏に有難らなくて良いと思うのだ

無理に感謝しなくてもよいと思うのだ

今は、過敏に有難がらせようとするもしくは、全くどっかいっちゃった

というより

なんだか

ただそうであるって感じ

なんかさ色んな言葉にならん風景や感覚、魂がぶおっとなる瞬間を例えば物語とか絵とか漫画とかお笑いとかなんか、イカした形で転換できるの憧れるんだけどなんせありきたりな言葉としてダラダラ説明する術しか今の私は持ち合わせていなく

どんなに言葉で書いてもそう!!これ!!!!とはならず後からあっこれもあれも!

と伝えきれてるのか自信のなさから、湧き出る物を足して足してこれもあとから足した文本来は削いで削いでな気が、

するが今の私はまだできない幼稚さなのだとおもう

小さなその卵はとても濃厚だった。

なんだかいつも以上に有難がった気持ちになったがよく考えたら毎日1秒1秒そんな事の繰り返しなわけで

そんな壮大さを思うと

所謂言葉としてこの世に蔓延る

夢とかやりたい事とか生活とか目指したい事とかなりたいとか

そもそも自分がどうこうなんて事は

そんなんまぢでどうでも良いと思ってしまう

何の為に、人間って脳を得たんだろか?

何をこの頭で本来考えてほしかったんだろうか?

あー今使ってるやん。いきなり目の前に現れたキジの卵ひとつに対してあーだこーだと考える様にできてるのか(笑) 

木原家日記では、無料メルマガ配信をしております。

日々の変化していくリアルな様子を交えつつ
”生きる=仕事”へと変化させていく方法などを
配信中。

私たち自身も、どんな生き方があるのか模索中!
一緒に探していきましょう!

まずは、繋がる事から。
意味のある事を”考える”より、ちょっと緩んで
ふわっとなんだか気づいたら・・・ってヒントがあるかもです。

気になった方そこのあなた♪
下のフォームから是非読者登録して下さいね♪

 

百姓ちかメルマガ

思い
chikaをフォローする
木原家日記

コメント

タイトルとURLをコピーしました