この言葉に初めて出会った今日
衝撃でもあり、おぉぉぉそうなのかとなんだか心にストンときた。
皆さんお久しぶりです。
久しぶりのブログになってしまいました。
環境再生医の杜人という映画の上映を長南町のたまる食堂にて開催され、
この映画を見てきました。
https://lingkaranfilms.com/
とりあえず、書き留めておきたくなったので、
書いておこうと思いパソコンを開きました。
自然界は常に満たされていなくて当たり前の状況があり、
だからこそ、それぞれが絶妙なバランスで暮らしを,互いに作用しながら、営んでいる。
唯一、常に常に満たされようと
そして満たされてもなお、さらにを求め続けるのが人間
満たされていなくて当たり前
いやその状態こそがすでに、満たされている状態
矛盾しているけど、でも矛盾してない。
何かがすこし足りていないから、他から何かの助けを得ており
他が少し足りないから、自らの何かを分けている
満たされていないからこそ、
むしろわざわざ満たされていないという
その状態をその時その時の現状に順応に保っているのが、自然界
自然界に生まれた私たち人間だってきっとそれはできると思う
すみません
何の説明にもなっていないんだけど
とにかく’満たされていないことは当たり前’
ひとつの草の映像を映しながら、語っているその一言の映像から
もう多くを語らずとも伝わる様々な気づきを得ました。
それをただ自然界の中での話しと捉えておわりではなく
私たちの生き方、暮らし方、命の使い方、人とのかかわり方
そういう一面にもあることなんじゃないんだろうかと思いました。
こうなりたい
あぁなりたい
こんなことがしたい
あんなことが理想だ
こういう夢がある
もちろんそれはとても素敵で
そこに向けて努力したり、がむしゃらになることも一つ生きていく上で
大事なエネルギー
私も、自分の思い描く感覚にむけて
形ない何かに向けてどうにか近づきたくて
そこにたどり着けなさ過ぎて
むしろ何にたどり着きたいのか
何に向かいたいのかすら分からなくて
この’満たされている’満たされていない’論でいくと
その時の私は満たされていなくて、
どうにかその空いてしまっている部分を満たしたくて
一生懸命に答えを探して、もやもやしていた時期があったなと
でも
そこから少しずつ動き始め
あの頃の私からすると、その時のモヤモヤの部分は少し満たせれるようになったと思う。
むしろ
もうすでに今現在の状態自体は
満たされているという風に捉えているような気もするけど
でもそれは綺麗ごとのような感じもする
なんだか今って今の状態自体が満たされていると感じる心を持つことが
素敵な心のあり方みたいに言われる事もある気がする
そういう心でいることで、素敵な事が自然と舞い込むし
そういう風なことで、引き寄せますよみたいな
だけれでも
今は今で、この状態になるとここから
更に良くなるようにと、
更に道を探したくなって、今までやれていない部分をもっとやりたくなっちゃって
更にまた満たそうと行動を起こそうとするのも事実
てか、生きていたらそういう風に思うものだと思うのだ
まぁそれは、行動を起こしていく為のいいエネルギーの源ともいえるだろうから
きっとこの先も
ずっとそれの繰り返しであるだろうし
永遠に人生なんて、それの繰り返しなんだと思う
それが醍醐味であり、きっと楽しさなんだろうなぁなんて思っていたけど
というより
’満たされていない’という
なんともパーフェクトな状態でいれることが
とてつもなくパーフェクトな状態なんだ!!!!!という
同じようだけど
’この状態に感謝しましょう’という良い人ぽくいなきゃいけない縛り(笑)とは
まったく違う
真逆行からの攻め方で
ストンと心に落としてくれる言葉だった
意味分からん?
意味わからんよね笑
いいのだ。
むしろ、意味なんてわからんくて良いことで
考えなくてもいいことなんだろう。
書いていて段々意味わからんくなってきたもん笑
とにかく!
様々なことが変わりつつある現在
どんどん感じる力を失い始めてしまった私たちに
地球の動き、自然の大きな変化を通して
どうにか、こうにか全身を使って沢山伝えようと
ただただ、今いるその場その場で、静かに
だが大きくたゆみなく動き続けているこの地球という大地の
すごさに、なんともいえぬ尊敬の念がわきあがり
それと同時に
その動きと同じ身体を持ち合わせている私たちなら
きっと感じ取れ、共に動けることは可能なんだと
思うわけなのです。
10月30日にも、再度大々的に映画を長南町にて、上映するので
その際はまたご案内します。
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