今私達は
買うだけでなく自ら作るということにも、チャレンジをしてみよう
暮らしを営もう
生きる=仕事を体現しよう
それは、言えば自給的に生きていきていきたくて、
そういう方向性が
何か現代の様々な問題を解決するひとつのきっかけになるんじゃないか感じ
自分達の生活を使って実験しているわけですが、
いくらそれを叶えたところで
人間の根源的な部分がブレてしまうと
おそらく、結局また行き詰ると思うのです。
お金を沢山稼いで、好きなものを好きなだけ買い、いつでも旅行にいけて
豪華な料理をたらふく食べれて・・・・
それをする事が、暮らす目的だとしたら
その先は、なんとなく行き詰るのはなんとなぁ~く分かる。
だけど、いくら自然の中に身を置き、自給的に暮らし
自ら作る、動く、生きるをしたところでも
それもどこか行き詰りが出てくるんじゃないかと考えています。
というのも・・・・・
私の親を例にあげてみたいと思いますが
私の両親は、現在東京に暮らしております。
年齢もあり、マンションに引っ越しました。
父は兄弟も多く、あまり裕福でなかった為、若い頃から働いていました。
今70を過ぎましたが、今も現役で消火器を売る営業マンとして雇われて働いております。
私の母は元々田舎生まれですが、田舎が嫌で東京にでてきて
結婚後、専業主婦となり家族の力となってきました。
普段の生活は
私がこうありたい!と思う生活とはかけ離れ
まさに東京の便利さ!を最大活用した暮らしをしております。
正直、実家に帰ると窓さえ全開で開け放つことさえ出来ない部屋には
なかなか長時間いるのがしんどいと思ってしまいます。
夏でも冬でも、常に快適温度が保たれ、寒いも暑いも感じない・・・。
ましてや自給的に暮らしたいだなんて、これっぽっちも思っていないと思います。
だが、彼らはとても活き活きしております。
日々、’生きる’ことを本気でしているように感じます。
暮らし方は違うにせよ、生きるをしていると感じるのです。
確かに、今までの一般的な暮らしの方法で毎日を営んでいるでしょう。
会社に行き、働いて、お給料をもらい、そこから生活に必要な分を支出する。
それでも、
便利さや効率さの波にもまれ、何かを忘れてしまっている様には見えないのです。
仕事に関して言えば
子供の前では愚痴を見せないという理由もあるのかもしれませんが
仕事に行く父は、仕方なしにいくという感じもなく
生活費の為だという感じもなく、
仕事を辞めたらどうしたらいいか分からないなどという悲壮感からでもなく、
颯爽と都内を駆け巡り
彼なりの形の、彼しかできない
生きる=仕事を体現している様にも感じます。
日常的の暮らしで言うと
小学校の時は、よく学校から帰ると両親がいない事も多く、
近所のパーマ屋さんで待っていた記憶があります。
それでも寂しいと感じた記憶は一切ありません。
その間彼らは何をしていたのか・・・・・
人の為に何かしているんです。
近所の人が困っていることに、すぐ駆けつけるんです。
地域の行事ももちろんですが、何もない時でも
よく電話がかかってきて、
どう考えてもただの愚痴じゃない?それ?みたいなことも
うん、うんと聞いていたり。
風邪引いたと聞けば、すぐ何か持って行ったり。
元気に挨拶をしたり笑
笑顔でいたり、背筋を伸ばして歩いていたり
もうめちゃめちゃ小さな事かもしれない、基本的な事かもしれない。
そういう事を本気でやっている様に思います。
何をして、どこにいるのか
子供の私は知る由もありませんでしたが
子供ながらに、
あぁ・・・・また誰かん所いってんだな・・・まじこちとらお腹すいとるんですけども~
みたいに捉えていた気がします。
そんな事してるから、一緒にちょいと商店街をあるけば、必ず知り合いがおり
私は全然知らない人や、覚えていない人からも
あらぁ~~大きくなったわね~と言われ、お母さんにお世話になったのよ~
なんて声を聞きながら、沢山の知らない人達から声をかけてもらいながら育つという
超地域密着型生活でした。
年を重ねた今でもそれは変わらず・・・
長期で海外に行っていた私が1年半ぶりとかに、
日本に帰ってきた当日も家につくと誰もおらず
えっ???何!おかえり~~~~!みたいな事ないん!!!??(笑)
と思うと、やっぱり誰かの所に行っていて、何かを助けているわけで。
そんな彼らを私は、とても尊敬をしています。
多分”助けている”とかいう意識もない感じがする。
概念がないというか・・・・
特に人には親切にしなさいだとか。
なにか名言や格言的なものを伝えられたこともなく
あ~しろ、こ~しろも一度も言われた事がないけれど
言葉以上に確実に二人の背中は、環境のうんぬんではなく
生きるって何かを教えてくれていたようにも感じ
今でも、彼らはとても生きる事で毎日忙しそうです笑
母も別に、何かすごく熱中するような趣味があるわけでもなく、
(フラダンス習ってみたけど、人間関係に悩んだ・・という人間らしい一面を吐露した時は、
可愛いと思ったけど)
父も自営で何かビジネスを成り立たせているわけでもなく
もうただただ、ごく一般的な平凡な夫婦です。
だけど、おそらく彼らは自分達が死ぬときに
あぁ~~良い人生だったなぁ~と感じて死ぬんだろうなと感じるのです。
彼らの一日を密着したことはないので、
どのように一日を過ごし誰と接し、どんな会話をしているのかは知りません。
だけどきっと子供って何か感じ取るっていうじゃん?
私が親から感じ取った感情がこれだったから、
たぶんそんな事を彼らはしてきているという事実はきっと間違ってないと思う。
私も彼らの境地に達することができるのか・・・・
それは分かりませんが、
それでも、背中でその様子を見せ続けてくれている存在がいることを
本当に有難く感じています。
だから・・・結局何をまた私は言いたいんだろうか(笑)
今までのいわゆる”豊かさ”と捉えられてきた部分を追い求めても
おそらく行き詰ると気づかれ始めた様にも感じる昨今。
だからといって、その豊かさの
今度は形を変えて、自給的な事に向かったとしても
それを目的にしてしまうと
’自分の描く暮らし’を追い求めるだけの構造は同じで
結局行き詰るかもしれない。
自分軸だとたぶん行き詰るのかもしれない。
だからといって
別に常に人に捧げる。
人の為に。
役にたつ。
その言葉をモットーに人生をいきます!だと
たぶんなんかそれは嘘っぽいというか
しんどいというか・・・違うとは思うけど。
かの有名なアインシュタインの言葉を引用しますと
”他の人の喜びを喜び、他の人とともに苦しむこと。–これが人間にとって一番の指針です”
そして平和活動に身を投じた晩年からの言葉でこんなものも、
“我々は自らの心を変え、
勇敢に声を発することによってのみ、他者の心を変えることができる”
‟私の永遠は、この一瞬”
常に試行錯誤で、悩みなんて常に100%何もなくなるなんて事はないと思う。
むしろ悩みがないと面白くないし。
だけど、、
私の両親の様に身に染み込んだ向き合い方が出来たらいいなと思うわけで・・・
声はやはり小さな事かもしれないけど、届けておきたい。
一瞬も永遠だから。
上手くしめられませんが、そんな事を書いておきたかったのです。
今日はここら辺で終わりにしましょう!
お付き合いありがとうございました♪
今日は今から和太鼓の練習です。
和太鼓始めたんです二人とも。
しかも、和太鼓も買っちゃったの・・・・笑
大丈夫かよ・・私達。
和太鼓より、まず軽トラだろ!と突っ込まれましたが・・(笑)
総勢10名のチームが発足したんです♪
お披露目出来るようにがんばります。
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