~環境の為に~ そもそもその概念自体存在しないんじゃないか?

思い

昨日作業しながら
ふっと湧き出た
誰の価値観なのか?という話を・・・。

世の中に広まるこんな言葉

自然を守ろう
環境を改善しよう
地球を守ろう
二酸化炭素問題
いまならエシカルという言葉や、SDGs
持続可能や、
ありとあらゆる○○を守ろう、○○の為に・・・・・

環境を守ろうという概念

とてもまともだし
本当にそうだと思う。
あまりにも壊されているもの
ないがしろにされてきてしまった事の代償で
世界中のあるとあらゆる場所で様々な事が起きている

温暖化
砂漠化
ゴミ問題
プラスチック問題
汚染
洪水
土砂崩れ
森林伐採

もうわからない・・・・そこから始まった問題は
それは多岐にわたりすぎて
まだ問題として名前としてはまだ浮かび上がっていない所にまで
もう影響しまくっていると思う。

ただ
ここ数年で大きく取り上げられ始めた環境問題という言葉

そもそも・・・その概念や言葉自体が傲慢というか
上から見ているというか

もちろん実際にはそうではないと思う。
分かりやすい言葉として、そう伝えないといけないし

実際そうゆう事を目的として動いていかないと手遅れな事も多い。

その奥の根本的には、皆の幸せな暮らしへとの思いだと思う。
私達の暮らしへの繋がりが多いにあるからこそ、
そこを改善しようと様々な取り組みが行われているし

私達も、里山に入り山の改善をしたり
そういう事を勉強しながらする機会も有難い事にある。

ただこの環境を守ろうだけの端的な解釈だと
根本的な解決にならないのかもしれないと思ったのだ。

んーーーーーいや

というか本来そういう概念自体が存在しなかったんだなと思ったの。

自然を元に戻そうや、なんだろう

私達が作り出したものですらないものを
あるべき姿に戻そうとか、良い状態に戻そうとか

なんだろ‥…本来古来の人たちの中にはそんな感覚や概念なかったんじゃないかと。

というのも、今日竹を大量に切ったのだ。

それは竹林整備をしたいから切ったのではなくて

おだがけ用に使う竹を切ったのだ。

おだがけとは、収穫した後の稲をかけて干す時に
使うもので、物干しざおみたいな感じで竹を組み立てて
そこにどんどん稲を干して乾燥させていく。

私も去年初めて少しやったんだけど、稲はとても重いので
しっかりとおだがえの竹を組んで、倒れない様にしなければいけないし
色々とコツはあるようなのだが

とにかく。。。。まず竹が沢山必要なのだ。

その竹を準備する為に、竹林に入った。

その時思ったのだ。
竹を取ろうとすると必然的に、勝手に竹林整備になっているのだ。

現在竹の問題は全国的で、山が荒れ、
元々竹林ではない所に竹が生えたり
藪化が進み荒れた山になっているところが多い。
その原因は、山の中での水の循環や、空気の流れが滞る所にある。

今回の様に竹藪から竹を取ろうとすると
ツルでからまった植物も切らないと、中には進んでいけないし
竹が密集しているような所も切っていく。

そうするとそれって勝手に竹林整備なのだ。

おだがけには使えない竹もあるけれども、それも切ったりしながら進めていく。
切るとある程度束で余分な部分も出てくる(例えば葉の部分など)
使わない部分達、それをどこにどう置いたり処理するのか・・・・・

そのポイントは
結局は美なのだ。

ただそこらへんにぶわっと広げておきっぱにすることも出来るけど
それだとなんだか乱雑で、なんとなく気持ちよくはない。

だから結局、山の環境改善で習ったような事をすこし取り入れてみると
なんとなくやっぱり美しさを感じる。

私達は今やそうやってすこし習わないと、
どうしたら美しいのかわかんなくなっちゃったかもだけど

たぶん昔は、そんな部分も感覚的にやっていて
勝手に山の為にもなっていたのではないか。

環境の為にとやっていた人っていなくて
やっぱり暮らしの為だったんだと思うのだ。

暮らしに必要だったから、そうしていただけで
暮らしをしていたら、勝手に自然も保たれている。

そういう感覚。

そして、その必要な部分を自然から頂く際も
どこか日本人の美という感覚が少なからず入るから
お互いが調和をしていたみたいな。

きっとそんな感覚なんじゃないかと思ったのだ。

やっぱり、暮らしなんだよ。

本物の暮らしを営むことって
それが本来の姿に戻る唯一の方法なんじゃないかと思ったのだ。

それは私達人間もそれぞれが、人間らしい状態で
自然環境もそれぞれが自然らしい状態で

お互いがそれぞれらしい状態で
負荷がないというか。

だけど、今は意識的にも自然の事を考えて行動を決めないと
あまりにも問題は大きいからなのかもしれないけど

それでも○○の為にという言葉は

しんどいじゃん・・・?

自然界だってそうだけど
鳥も虫も草も木も
皆日々何をしているか

日々自分達が自分たちらしく生きやすい様に、
何かを出したり、採って、食べたりしている。

だけどそれはまわりまわって何か別の生き物の為になっていることが多い。
鳥が何かの木の実を食べることだって、食べ終わった後の
その種は別の場所に運ばれ、
その木の実の生命をつなげる役割を担っている。

虫だって、小さな小さな糞をする。でもそれは土を耕すことになっている。

地球の物理的な面積と比べるとそれはあまりにも小さな力かもしれないけど
何よりも確実で、大きくて、本質的なことをしている。

だれも、これをすることによって自然がよくなる!と思ってやっているわけではない。

でもそもそも生物とはそういう生きる為に行う行為自体が
すでに何かの為になっているという、生き物なんじゃないか?

別に自己中にいきれば良いとか、自分が快適なら良いとかそういうことではないよ。
わかるじゃん?その感覚の違い。

人間はさらに有難いことに、
ありがとうという言葉や、思いやるとかの気持ちの感性や
他を心配してみたり、他の悲しみを自分の悲しみと捉えられたりする感性を
持ち合わせている。

それって凄すぎると思うし、
生きるという事と、そういった感情を持っているという
そんな長所は存分に活用していけばいいだけなんじゃないかと
そんな事を思った。

竹からずいぶん話がずれたけど。

暮らしに必要な事をしていたら、勝手に地球も喜んでいる。

自然を守りましょう
では、どうやって・・・・という議論をパソコンを一人一台前に
何か画面を見ながら、議論をかわす・・・。
ではなく

ただそれぞれが暮らしをしてる。
そんな議論さえ必要じゃなくなる
概念さえない。
それがただの、日常になる日が来ると、とてもいいなと。

それってだって・・・・
とっても楽しくて、楽だと思うのです。

そんな事を思うと、やはりこの地域に暮らす方々を思うと
尊敬するのです。

地道にやってきている皆さんの振舞い。
草刈りや地域の行事。

農業でいえば
例えばいくら農薬を使っていようが、除草剤を使っていようが
正直本当テーブルの上であーかな、こうかなと自然環境問題について
議論をしていることなんかより

なによりも、今目の前と向き合って
とにかく身体で動いている事は何よりもきっと尊い。

でもだからこそ、何かの政策の価値基準で豊かさを決めないで欲しかった。
収入が多い方が良いというような、豊かさの基準を
持ってきてほしくなかった。
生活の豊かさの基準を勝手に決めないでほしかった。
生活の豊かさや安定という様な言葉で、それを形や数字に表して
例として、テレビや映画、メディアなどを通してなのか
分からないけど、わざわざ表してくれなくても良かったのにと思う。
誰かが勝手に作り上げた、そちらの価値感覚を持ってきて欲しくなかった。
その価値基準に合わせるために、考えなくても良い所
作り出さなくてもよかったもの。
それを維持するために、背ざる負えなくなってしまったものが余りにも多い。

本当に翻弄されてきている。
米をつくるにしても、木を植えるにしても、何にしても。

沢山作ってほしい時は合わせた
作らないでほしい時も合わせた。

その方があなた方にメリットがあります。
助成します。
生活が安定します。

その都度、合わせてきた。

なぜかその価値感に合わせてきた。

一体それは、誰の価値観だったんだろう。

ベターがあるなら、そちらを選ぶ。
それも人間の性分なのかもしれない

でもどちらにせよ、やっぱり尊い。
尊い人がこの世には沢山いる。

でもそんな尊いからこそ、守れる力
進める力は強いと思う。
可能性の大きさは無限だと思う。

そんな事を、今書きながら思ったので
シェアさせて頂きました!

いつもありがとうございます。

たまに熱くなります・・・これでも抑えている方です笑



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